* * *
湾の説明を受けた小環はこくりと頷き、ゆっくりと口を開く。「空我邸襲撃に古都律華が関わっているのは俺も感づいていたが、そうか、空我侯爵の奥方が川津の人間だったのか……」
「黒幕は別にいるだろうが、義妹が暗殺者を手引きし、使用人もろとも嬢ちゃんを殺そうとしたのは確かだ」 「決めつけるのはよくないと思うぞ。証拠でもあるのか」 「……ゆずにいが」湾に厳しく追及する小環に、桜桃がぽつりと言い返す。その甘ったれた声に、小環は苛立ちを隠せない。
「柚葉だっけ、お前の異母兄。彼も共犯って可能性は?」
「それはない。彼が嬢ちゃんを俺に託した」きつい口調の小環を諌めるように湾がきっぱりと応える。桜桃は困惑した表情で小環と湾の顔色をうかがい、右往左往している。
「ふうん。だとすると怪しいのは実子だっていう湾の意見が正しく見えてくるな。だが、もうひとり可能性のある人間を見落としてはいないか?」
「義姉上は、そういうひとじゃないわ」樹太朗の長女、梅子のことを指摘され、桜桃が噛みつく。たしかに彼女は桜桃を蔑んではいたけれど、疎んではいなかった。彼女は正直な人間だ。桜桃が天神の娘であることを知っているのなら、後味悪く殺すよりも利用する側に立つはずだ。
そのことを暗に匂わせると、小環は話の矛先をあっさりと翻す。「暗殺者は銃弾を受けて死んでいたそうだ。お前の異母姉兄は銃の扱いに長けていたそうだな。返り討ちにしたのは柚葉か」
「……」 「責めているわけではない。暗殺者を殺さなければお前が死んでいただろうからな。正当防衛で罪に問われることはない」そのときの状況が桜桃の脳裡で閃き、目の前が真っ暗になる。小環が淡々と事実を述べていくに従って、桜桃の顔色から赤みが抜けていく。
「小環、もうやめとけ。まだ三日も経ってないんだ。嬢ちゃんにそのときの状況を思い出させても意味はない」
「意味ならある。彼女が天神の娘であるから、此度のようなことが起きたのだ。逃げてばかりいては今後、すぐにやられるだろう。身を* * * 白で統一された寮内はどこも無機質だが、生徒たちが二人一組で生活をする部屋だけはそれぞれの個性が光っている。桂也乃と四季の部屋は、桂也乃の趣味なのか、緞帳の色が淡い撫子色で、床の敷物も薄紅色で、どちらにも愛らしい小花模様が編み込まれており、部屋全体を明るく華やいだ雰囲気にしていた。 この学校に入ってそろそろ半月が経つというのに、桜桃は他の生徒たちが生活する部屋に足を運んだことがなかった。小環はこの部屋に行ったことがあるようで、「相変わらずの少女趣味だな」などと苦笑いをしている。 だが、その部屋の主のひとりである桂也乃はここにはない。 桜桃を庇って銃弾を受けた桂也乃の意識はその後すぐに戻ったものの、失血量が多かったため、立ち上がり動くことができなくなってしまったのだ。無理に動くと治りも悪くなると校医に判断され、いまも包帯を巻かれたまま救護室での生活を余儀なくされている。 とはいえ、撃たれて半日してから桜桃たちが彼女の見舞いに行ったときにはすでに桂也乃は救護室の寝台を独り占めして優雅に本を読んでいた。彼女のそんな様子を見て、桜桃はようやく命に関わる怪我ではないことに気づけたようだ。 その傍らには筆記用具と封緘のされた撫子色の封筒も転がっていた。小環が問いかけると、暇だから帝都のお姉さまに愚痴っちゃったの、と悪戯を思いついた子どものように今日の最終の郵便船に間に合うよう無理を押しつけて彼に託したのだ。小環は自分だけに見せられた宛先を確認し、桜桃と四季を残して桂也乃の依頼を遂行したのだ……空我本宅の住所で暮らす、うら若き未亡人で柚葉の実姉である前子爵夫人、黒多梅子へ届けるために。 あれから。 寒河江雁が猟銃で黒多桂也乃を撃ったという事件から三日が経っていた。あの手紙はもう桂也乃の義姉で桜桃の異母姉、梅子のもとに渡っただろうか。 小環は混乱を避けるために桜桃に桂也乃が異母姉兄たちに手紙を送ったことを伝えていない。桂也乃もまた、桜桃にこれ以上心配させないよう小環に宛先を隠して手紙を託したに違いない。手紙の中身は気になるが、事件のことを報せただけにすぎないだろう。 桂也乃の
小環からの文を読んだ湾は思わず芝桜の咲き誇る庭を臨める窓の向こうへ投げ捨てたくなる衝動にかられた。だが、そのまま投げ捨てるわけにもいかず、渋々細かく破り捨てて準備しておいた特殊な水に溶かしこむ。 その様子を見ていた柚葉は彼の態度を一瞥して、つまらなそうに呟く。「黒多子爵令嬢が撃たれたそうですね」 「……知ってたのか」 「姉上への手紙にそう書かれていました」 柚葉は懐に入れておいた黒椿の印が押された撫子色の封筒をこれ見よがしに差し出す。奪い取り、便箋に記された文字を辿った湾は黙って千切り、水の中へ散らしていく。 黒多桂也乃と柚葉の姉、梅子は桜桃が北海大陸へ渡る以前から文通をしていたらしい。桂也乃は梅子を姉のように慕い、梅子もまた神皇の異母妹の娘である素直で朗らかな桂也乃を認めていたという。愛妾の娘である異母妹の桜桃よりもずっと姉妹のように見えたことを思い出し、柚葉は苦笑する。「どういうめぐりあわせか、因縁深い相手ばかりがゆすらの周りにいるようです」 柚葉は梅子と湾からそれぞれ情報を受け取っている。梅子は桂也乃からの手紙をそのまま柚葉に渡すが、湾は皇一族の機密に関わるからと口頭で伝えてくる。まるで渡すべき情報を選んでいるかのようで気に食わないが、現時点で柚葉は皇一族を敵に回そうとは考えていないため、渋々、桂也乃の手紙と照らし合わせながら湾の言葉を確認していく。「犯人はすでに捕まっている」 「ええ。『雪』の部族だとは思いもしませんでしたが」 桂也乃の手紙にも、小環からのそっけない文書にも、寒河江雁という見知らぬ少女の名が記されていた。彼女が桜桃を狙って猟銃を発砲したという。だが、なぜ彼女が桜桃を狙ったのかは捕まってからも黙秘しているようで、真意はわからないままだ。 桜桃を庇って肩を撃たれた桂也乃は、一時的に意識を失ったもののすぐに回復し、救護室から筆を走らせその日の郵便船で間に合うように手紙を書き上げたのだ。五日に一度の海軍定期船とは異なり、民間の郵便船は三日に一度の頻度で運航されているので急ぎの場合は便利である。とはいえ天候に左右されやすい郵便船は
少女が顔を向けた先には、同じようにびしょ濡れになって突っ立っているボレロ姿の少女がいる。少女の瞳は、澄み切った灰色。「……」 その腕には、少女が持つにはおおきすぎる無骨な猟銃を抱きかかえている。発砲したことで生じた焦げくさい臭いは、この雨で消されてしまったようだ。 ふたりの少女は降りしきる雨の中、睨みあうように対峙する。「天神の娘を殺せと言ってるわけじゃなかったのに。ただ、ここにいたら困るから、別の舞台に移ってもらいたかっただけ……まさか帝都清華の令嬢が庇うなんて」 「何を言っているの?」 疑わしそうな少女を見て、暗示が解けてきたのを悟り、ふたたび少女は名で縛る。 すると、怪訝そうな顔をしていた少女の瞳の色が薄くなり、蝋人形のように、表情を失った。 暗示を施した少女は満足そうに少女の耳元へ囁く。「この地に春を呼ぶために、必要なのは天女であって、ちからを持たない天神の娘ではない」 少女はそう口にして、付け加える。「でも、ようやく網にかかった天神の娘をそのまま殺したら、古都律華の頭の固い奴らと一緒。神々を統べる至高神と契りを結んだカシケキクの末裔である天神の娘ですもの、利用しなくては」 天神の娘が泣いたからか、ひどい雨だ。 自分たちを糾弾するような氷雨を浴びながら、少女はそれでも宣言する。「失われた伊妻の栄光をこの手に取り戻すため、皇一族を奈落の底へ突き落すため、天神の娘には傀儡になっていただくわ。ほんと便利よね、カイムの民って。ひとつの名前にふたつの意味を持たせるふたつ名があるんですもの。天神の娘も、目の前にいる貴女のように、ふたつ名で縛ってあげるの。素敵でしょう?」 くすくす笑いながら少女は名を呼ぶ。「ずぶ濡れになっちゃったわね。浴場に行ってから、戻った方がいいのではないかしら? その手にある大事なものも忘れないようにしなさいね。きっと、みんなに驚かれちゃうわ、狩(カリ)さん」 狩と名を呼ばれた少女、寒河江雁は、言われたとおりだと素直に頷き、猟銃を手にしたまま、ふらりと建物の中へ入って
* * * 桂也乃。仲良くなったばかりの女学校の友達。なんで、彼女が撃たれなくちゃいけないの? あたしを庇ったから? 桜桃の悲鳴に呼応するかのように、息を切って走って来た小環が、隣に滑り込む。 ――ここは安全な鳥籠じゃない。 そう言っていた小環の言葉が、いまになって身に沁みる。「小環……」 「撃たれたのは肩か。弾は貫通している。痛みで意識を失っているだけだ。命にかかわることはない」 手早く桂也乃の状態を診て、小環は桜桃に告げる。 誰かが呼んだのか、校医が担架を運んできた。遅れてやってきた四季が何も言わずに校医とともに桂也乃を乗せた担架を持ち、桜桃たちを置いて救護室へ慌ただしく姿を消す。 残雪に残る真紅が、桜桃の瞼の裏で燃え上がる。空我別邸で使用人たちが惨殺されたときと同じだ。 「……あたしのせいよ」 自分が天神の娘で狙われた存在である自覚が足りていなかったから、こんなことが起きたのだと桜桃は弱々しく呟く。 「そうだな、お前のせいだ」 当然のように小環は応え、泣くのを堪えている桜桃を抱きしめる。柚葉だったら、絶対こんな反応はしない。そんなことないよって真っ先に否定してくれるはずだ。 でも、ここには護ってくれた柚葉はいない。いるのは意地悪な小環だけだ。けれど。「……黒多はお前を護れて喜んでいると思う」 ぶっきらぼうに、付け加える。「そう、かな」 泣くまいと思っても、桜桃の応えに頷いた小環に抱きしめられて気が抜けたからか、涙があふれ出してしまった。 しがみついて、いまは泣く。 上空もいまにも泣きそうな色をしている。 小環は泣きだした桜桃を抱きしめ、背中をやさしくさすりながら、空を見つめる。 雨が降りだした。 凍てつく土を頑なにしてしまう、冷たい雨が。 残雪を溶かし春の芽吹きを呼ぶやさしい雨ではなくて。雷を伴った氷雨が。
「!」 猟銃の発砲音に、小環が無言で四季の部屋から飛び出していく。四季もまた、ちからの奔流を感じて立ち上がる。 ――天神の娘が嘆いている。 負のちからが潤蕊に雨雲を寄せ付ける。 このままちからが暴走したら、雪よりも冷たい、天が流す涙のような氷雨が降りだすだろう。「……ミカミ・サクラ」 偽名とはいえよく考えたものだ、と四季は嗤う。 神と同等の存在として崇められ、恐れられた生粋のカシケキクはもはやいない。『天』の血を継ぐ人間はこの大陸中に溢れ、それぞれが三上や見上、御神などという姓を名乗ってはいるが、神と等しいちからを持つ者は残っていないとされていた。土地に縛られる形で神職を務める逆さ斎の一族をのぞいて。 だが、帝都からやって来た男に恋してこの地を棄てた巫女姫、セツは、身に神を宿せる生粋の『天』だった。 小環の傍にいた少女は、その巫女姫の娘。なんのちからも持たない小娘が、純血の天神の娘の娘だからという理由で追い詰められ、その結果、母の故郷である北の大地に足を踏み入れることになるとは、なんたる皮肉。環境の変化に翻弄されながらもようやく彼女はここでの生活に慣れてきたように見えたというのに、さきほどの銃声で、呆気なく壊されてしまった。「ちからを持たぬ天神の娘など、我らカシケキクの傍流と同じ。お前たちも放っておけばよいものを!」 四季は毒づきながら、粟立つ肌を両腕でかき抱く。 四季の周りにいる神々はざわめいている。天神の娘の嘆きを聞き入れるように雨雲が集ってくる。稲妻を彷彿させる騒がしい耳鳴りが四季を苛む。雷雨になるだろう。けれど、常人にはわかりようのない変化だ。ただ、天気が崩れた。それだけのこと。 もはや神々と共存する時代は終わったのか? だからこの大陸に春はやって来ないのか?「くだらない」 天女を信じて神の血縁である神皇に嘆願した『雪』も、天女を見限って神嫁にすがる『雨』も、神に媚び諂っているだけだ。 四季の祖先は『天』に繋がりを持ちながらも土地神のいない椎斎にいた。その後、神
* * * 蝶子を乗せた黒い幌馬車はゆっくりと校門前から去っていく。「行ってしまいましたわ……」 すこしだけ淋しそうな桂也乃を見て、桜桃も頷く。周囲には桂也乃たちのように蝶子を見送り名残惜しそうに走り去っていく馬車を見つめている生徒たちの姿がみえる。小環の姿はない。たぶん、呆れて先に部屋に戻ったのだろう。「……桂也乃さん、いつもこのようなことが起こるのですか」 桜桃はおそるおそる桂也乃に問いかける。桂也乃は軽く首を振って、桜桃に説明する。「いつもこんなに派手なわけじゃないけど、先輩たちは結婚が決まると同時にこの学校を去っていったわ。『神嫁御渡(かみよめのおわたり)』と呼ばれる冠理女学校特有の送迎儀式なの」 花嫁修業をするために設立された華族御用達の全寮制女学校。学校を出る時は結婚する時、というのがここでは常識らしい。だが、金さえ払えばわけありの少女でもあっさり受け入れるという裏の面を考えると、すべての生徒が結婚を機に学校を辞するとは考えられない。「神嫁、なんて呼ばれるのね」 「そうよ。なんでも冠理女学校にいた生徒は北海大陸の神々に愛を賜り、良妻賢母となりて夫を支える、って評判ですもの」 桜桃はふーん、と上辺だけの返事をして考える。神々がどうのこうの、というのはたぶん商売のうえでの宣伝文句だろうが、神嫁という呼び名や仰々しい儀式など、天神の娘である桜桃からしても胡散臭さが拭いきれない。 ……じゃあ、あたしや小環みたいにわけありの生徒はどうやって学校を去るのだろう? 潜入するときのように多額の金を入れないと出してもらえなかったりするのだろうか? 桜桃の疑問に気づいたのか、桂也乃は声を落として耳元で囁く。「だけど」 その言葉のつづきをきくことは叶わなかった。 ――パァン! 刹那。 何かが破裂したような甲高い音が、桜桃の目の前で響き渡る。 蝶子の神嫁